第1回訪問 平成15年10月18日
第2回訪問 平成16年 9月12日

南硫黄島同様、険しい山の島です。
南側から接近して島から約800mの距離を反時計回りに2周しました。

●この島のポイント

・南硫黄島同様に山の島である一方、僅かながら平地もある島
・明治時代から太平洋戦争のまでの間、人が生活していた
・古代先住民の遺跡が発見された

●島の見所

・標高792mの榊ヶ峰
・石野村(跡地)
・西村(跡地)
・長根鼻
石野村
(石野村を 左写真:南東方向から 右写真:東方向から それぞれ撮影)

島の東側に緩やかな台地があります。そこが石野村の跡地だそうです。
明治31年、石野平之丞と言う人物らの手によって開拓が始まり、
太平洋戦争時の強制疎開があるまで住民が生活していたそうです。
この島の調査経験がある解説者の方曰く、ここは近くに渋川(しぶかわ)と言う枯れない川があり、
生活をしていく上で非常に都合の良い場所だそうです。

また、過去平成4年まで4回の調査が行われたそうですが、
3回目の調査で石野村地区からマリアナ系先住民の遺跡が発掘され、
ミクロネシア系の文明がこの北硫黄島まで伝来していた証拠として注目を集めました。
しかし、調査は平成4年の4回目調査を最後にそれ以降の調査は中断・凍結したままとの事です。
遺跡の発掘調査は平成になってからの話しですが、
明治時代に住んでいた住民は遺跡がある事を既に知っていたそうです。

 
(左写真:石野村のふもとの海岸 右写真:石野村(写真右下部)の上側を撮影。雲が掛かっています)

西村
石野村が島の東側にありましたが、西村は名前の通り島の西側(北西部)にあります。
解説員の方が西村の場所を教えてくださいました。それが下の写真・・・・。


石野村より厳しい地形です。
明治時代に持ち込まれたと言うガジュマロの木々だけが唯一、人間が居た跡として残っています。

仰天話し
父島・母島・硫黄島同様にこの北硫黄島にも学校があり、
子ども達は日々学校に通っていたそうです。
学校は石野村にあり、西村の子ども達は普段は海岸線づたいに通っていたそうですが、
海が時化(シケ)た時は・・・・山越えをして通ったそうです。
山越えと言いますが、解説員が指差す先は・・・・下の写真の矢印の所。



雲から僅かに尾根が見える箇所がご覧頂けるでしょうか?
この矢印の右側(島中央)は666mの山、左側(島北側)は538mの山がそびえています。
矢印の箇所はその山と山の間の低い場所ですが、それでも460mはあります。
これ程までに厳しい学校通いが他にあるでしょうか?
私は信じられなくて解説員の方に何遍も聞き直してしまいました。


長根鼻

島の南西部、細かな砂が堆積したかのような斜面があります。

その他北硫黄島写真

島のほぼ南側から撮影。ベストショットとなりました。

 
左:南東部ズーム撮影。 右:東側。南硫黄島同様、切り立っていますが海岸があります。
 
左:南東部。多分、長い年月を掛けて浸食されたであろう崖と谷間が多数見えます。 
右:東側。険しい崖がせり出しています。

 
左:島北部を北西側から撮影。 右:西側(西村の南側)
 
左:島西側。平地が見当たりません。 右:雲が取れた一瞬を狙って頂上付近を南側から撮影。
南側の山の山頂は三万坪と言う平地になっています。
明治時代の開拓者はこの標高800mの高地に牛を放牧したそうです。
どぅやって牛を連れて行ったのでしょう?

周回を終えた船は島の南側より母島を目指して離れて行きます。
 
先程まで見えていた山頂付近も再び雲に覆われてしまいました。
まるで私達のクルーズの時だけ雲が覆いを取り去ってくれたかのような、それ程絶妙なタイミングでした。
船の周りを飛び回っていた鳥達も再び元の平穏な時を過ごすのでしょう。


明治〜昭和初期の島の暮らし
僅かに残る品々から当時の生活を想像する事ができます。
 

(父島・小笠原ビジターセンター 蔵)


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